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運命の出会い

 運命の出会いについて考えてみたい。「出会い」という言葉は、もう手垢にまみれてしまって、その言葉自体に、とくに何か特別なものは感じない。しかし、「出会い」に「運命の」という形容詞がつくと、何かドラマチックな出来事のように思える。今まで生きた中でそういった出会いがあったかどうか、記憶の糸をたどっていくと、たしかにそれらしき出会いはあった。3人の男たちだ。ただしこれらの男たちは、そのうちの2人がずっと以前に他界し、あとの1人もそれに近い状態で、互いに連絡を取り合うことはない。人生のある時期に出会って、人生のある時期に、私の前からその実体的な存在はなくなった。いま現在は何らの交流もない男たちだが、少なくとも、私に何らかの影響を及ぼした男たちだ。1人は趣味の世界に、1人は学術の世界に、あとの1人は内面的な世界に。彼らの口から出た何十年も前に発せられた言葉が、今もそのときの表情とともに蘇ってくる。きっと私の心の深くに入り込んでいるのだろう。運命の出会いとは、心の奥深くに入り込めるエネルギーを持った言葉を発する相手との出会いのことだ。3人の男たちは、自分の発した言葉が、私にどれほどの影響を与えたかなんてことは知らないだろう。だけど、私にとっては、やはり彼らは運命の男たちだ。

挨拶

 出世した自分とはまったく関わりのない人間に、改めて挨拶したくなるときって、どんな時だろうか。相手との差が歴然と開いてみえる自分が幸せすぎて、そのことを、出世とは無縁な人間に自慢したくなるときだろうか。最近、そういったことがあった。唐突にこちらに近寄って来てその人は、世間話をひとしきりしたあとに、またどうぞよろしくお願いします、と言った。そのとき、出世する人というのはやっぱりちがうなあと思った。どうでもいい人にまで、ちゃんとここに自分がいると、その存在をアピールし続けるという努力を決して怠らない。空気のように職場に漂っているだけの人間には、とてもできない芸当だ。

変化のとき

変化には二通りあります。外面的変化と内面的変化です。外面的変化は人から見てあきらかな変化で、昇進とか降格とか、転勤とか結婚などです。内面的変化はその人にしかわからない変化で、これにも二種類あります。横の変化と縦の変化です。横の変化とは、好奇心の変移とか、誰かを好きになったり嫌いになったりなどの感情面での変化です。ここまでは自分の意識下の変化ということができます。しかしここで問題にしたいのは、縦の変化です。縦の変化こそは、自分の無意識の変化です。この変化がおきるとき、過去にあった悔やんでいる出来事が、意識上に浮かんでは消えを繰り返します。何度も、もう思い出したくないような事柄が、鮮明な画像となって頭の中を駆け巡ります。とても苦しく嫌な経験です。すべてが出てしまうまで、それは何度も繰り返しておこります。毎日、過去の自分がしてしまったことに祈りをこめて過ごすことになります。しかし、このつらい時期を終えたとき、無意識の領域に大きな変化がおき、羽がはえたように心が軽くなり、躊躇なく次のステップを踏むことができるようになっています。

蟠桃(バントウ)

蟠桃という名の桃がある。形は平べったくていびつだが、甘くておいしい桃だ。かの中国の物語に登場する孫悟空が、不老長寿を願って食べた桃とも、古事記に登場するイザナギが、黄泉平坂で邪気払いに投げた桃とも言われている。蟠桃の蟠という字は、虫偏に番と書き、この字は蛇がとぐろを巻く様子を表している。 とぐろを巻いた蛇から何を連想するだろうか。人間の抱く不平や不満をこの字は象徴している。とぐろを巻くとは、身をかがめて、不平不満に満ち満ちて、自分ではどうにもならないほど怒りのこみあげてきている状態だ。とぐろを巻いたあと、次にどういった展開があるだろう。

停滞運

 40年間ずっと、自分にとってよくない星が巡っていた。四柱推命でいう大運は10年区切りで運が変化していくが、それが40年間、これ以上ないほどの悪い星の巡りだった。生まれた瞬間に決定した命を車だとすると、大運はその車が走っていく道や天候を表している。18歳から58歳まで、どしゃぶりの、ぬかるんだ道を走ってきた感じだ。泥をかぶりながら、汚れたウィンドウから外の景色を眺める毎日だった。ある時期、わたしにもチャンスらしきものが来た。チャンスは人がもたらすものだ。その時その人は、自分自身があまりにも豊かなので、あちこちにチャンスをばらまいていた。しかしながら、その時はせっかくのチャンスに食いつけなかった。それまでの自分を捨てて、新しい自分に賭ける勇気がなかったし、自分を変えたくなかった。その人のもたらしたチャンスに食いついた人々は、それから何年か後には、みんなそれぞれに出世し、社会的に何段階もステージがアップし、高収入となっている。私はどうかといえば、何十年もまったく変わらず、ひたすら少ない給料から何某かの貯金をし続けているような状況だ。汚れたウィンドウから見る数々の出世劇は、その一つ一つが興味深い。人が社会で伸びていく様子は、自分自身が停滞し続けているだけに、たっぷりと屈辱感や劣等感を味わわせてもらった。おそらくそれで何か学ばなくてはならなかったのだろう。停滞するとは、自分がより強固に、人様から影響をうけなくなっていくことだ。といっても、感性が枯渇したわけではない。びんびんと自分に向けられている否定的な一瞥を感じながらも、自分を貫いていく生き方を学んだ。子供時代からずっと持ち続けている夢を、今後の人生で必ず実現したい。それは、「魔法使いになる」という夢だ。小説世界でそれを実現しようと考えた時期もあったが、現在はそれだけにとどまらず、現実世界で夢を実現したいと思うようになった。

『易』の特徴三つ

 『易』は『易経』ともいい、儒教の経書の一つです。「経」の字はもともと織物の縦糸の意で、そこから筋道、道の意味となり、人の生きる道、天下国家を統治する道、宇宙を動かしている道を解き明かしたものを意味することになりました。 『易』の特徴は以下の三つです。 第一の特徴は、『易』は占筮(うらない)のテキストであることです。古代中国では国の大事を決定するのに、多く占いによりました。殷の時代には、亀の甲を灼いたときのひびわれの形で吉凶を占う方法が多く用いられましたが、周の時代になると、亀卜より筮のほうがより多く用いられました。 第二の特徴は、『易』が処世の智慧に満ちていることです。『易』は、その神秘的な予見の作用によって、物事の起こるわずかな兆しを示すだけでなく、いかにすれば禍を避けることができるかを教える点で、実際的な処世知の書物となっています。 第三の特徴は、思想の書であるということです。つまり「道」を明らかにする哲学、中国のことばでいう天人之学を追求したもので、その宇宙論的哲学は東洋哲学の礎となっています。 以上、『易』について書いてみました。

ギルガメッシュ叙事詩

ギルガメッシュって、どこかで聞いたことがありますか? これは、1872年、大英博物館で、ジョージ・スミスによって発見された占星術に関する最古の文献です。ギルガメッシュとは、シュメール語で英雄の意ですが、じつは、旧約聖書に語られているノアの大洪水のあとに、シュメール帝国を統治した実在の君主の名なのです。 ギルガメッシュ叙事詩のあらすじをざっと語ると、英雄ギルガメッシュはウルクの王で、三分の一は人間で、三分の二は神でした。ウルクに城壁を築き、女神イシュタルのために神殿を建て人民を酷使したため、怒った神が天から怪物エンキドゥを差し向けました。エンキドゥはギルガメッシュと格闘し、互角の引き分けとなったあと、ギルガメッシュと無二の親友になりました。 逸楽と淫蕩の女神イシュタルの色香に迷わず、ギルガメッシュはイシュタルにつれなくしました。自尊心を傷つけられたイシュタルは、復讐の鬼と化し、父なる天の神アヌウに、ギルガメッシュを亡き者にするため、天の牛を遣わすよう頼みました。しかし逆に、ウルクに向かった天の牛を、ギルガメッシュとエンキドゥが虐殺します。天の牛を殺した者には、死という運命が待ち受けていました。エンキドゥの突然の死を見て、ギルガメッシュは怖れおののき、不死の霊薬を求めて旅に出ます。 ギルガメッシュは聖者の島に渡って、ついにそこに生い茂る不死の霊芝草をつみとります。帰路の途中、この霊芝草は蛇に盗み食われてしまいます。ギルガメッシュは不死は神のものであり、人間は死すべきものであることを思い知ります。 ギルガメッシュ叙事詩によると、ノアの大洪水の生存者だけが不死を獲得したことになっていますが、このノアの大洪水は、月と太陽および他の惑星の合の結果であると記されています。このように粘土書板に刻まれたギルガメッシュの叙事詩は、文献という形で現存する最古の占星予見なのです。