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運命学へ(68)

可能性の物語。若いから可能性がたくさんあるというわけではない。多くの可能性をもって生まれ、たったひとつの可能性を選択して死んでいく。生きるとは絶え間なく選択し続けることだ。だから運命式を見たときに、まず最初に注目しなければならないのは、その人の最後の可能性だ。結果とか目的という言葉で置き換えることもできる。劇でいうラストシーンだ。このラストシーンに向かって、すべてが緻密に構成されて進行していき、クライマックスで激しく爆裂する。振れ幅の大きい人生は面白い。

運命学へ(67)

四柱推命の運命式から、いくつもの物語を劇的に描く方法論の確立まであと少しだ。物語の構成については、ここ何年か考え続けてきた。命式にある八文字を使って、ある性格や個性、先天的に備わった才能をもつ主人公に、いつ、どんな対立要素が現れて、それがどんな風に展開していくのか。クライマックスはどうなるのか。また結末に向かって、何を用いれば物語が面白くエキサイティングなものになるのかをずっと考えてきた。四柱推命の命式からは、どういった課題を背負ってこの世に生まれてきたのかのような、生まれてきたミッションみたいなものがわかり、それが最終的にどういった結末になるか見当がつく。人生を生きる目的は何なのか、何が障害になり、何が助けになるかもわかる。また、生きていく上で、どういった天候のなかを歩まねばならないかもわかる。これだけの要素があれば、一人一人ちがった物語が幾通りにも描ける。自分にしかできないこと、やっていて時間を忘れてしまうこと、最高に喜びを感じることは何か。

運命学へ(66)

四柱推命は『老子』に思想的影響を強くうけている。二千数百年前に書かれた『老子』は、同時期に成立したとされる『論語』とは違って、ある限定された人物による書物であるという確証がない。その根拠として一つには、『論語』のように、具体的な地名や人名がまったく書かれていないことがあげられる。『老子』は全篇が抽象的な議論に終始しているのだが、そこには深い人生訓ともいうべき人生のエッセンスがつまっている。通説にしたがって「道」を、世界を世界たらしめている根源的で普遍的な作用と考えて、この「道」の働きが具体化したものを「存在」とすると、『老子』においては「道」と「存在」は一体化している。ヨーロッパの伝統的形而上学のように、それらは別個のものではない。「存在」の前後左右に「道」などないのである。

運命学へ(65)

東アジアの思考基盤となっている二つの書物は、『論語』と『老子』である。『老子』のキーワードになっている「道」という言葉は、安富歩氏の解釈によれば、「ものごとを成り立たせる不可思議な力」を意味している。この力は、減ることもなければ溢れることもなく、万物の淵源から発しており、尖った心をやわらかくし、縺れた関係を解きほぐし、光を調和させ、汚れを清める働きがある。『老子』によれば、人がよく生きるためには、身体を通じてものごとを感じること、つまり感性を豊かにすることが肝要なのである。感性が豊かになると、この世界の根源である母なる神秘と父なる神秘を体感し、権力者の話にまどわされることなく、自らの内なる声に従って、自分自身の心を自分で統御して生き生きとした生を生きるようになる。「道を得て真理を聞こうとする者は、日々何かを捨てる。これを捨て、また捨て、そうして無為に至る。無為であれば、為しえないことなどない」

運命学へ(64)

一歩踏み出すとどうなるか。たくさんあった可能性が一挙に少なくなる。顔がある方向を向くことで、見えなくなった可能性はすべて消えてしまう。もはや意識世界に存在しなくなってしまうのだ。二歩、三歩と歩むうちに、少なくなった見えている可能性に、どんどん集中するようになる。そうなると、普通の人よりも目指すそれを深く見れるようになり、うまく出来るようになる。だから、可能性を減らしていくことこそが成功への道となる。「あなたにはたくさんの可能性がある」なんて言葉にまどわされてはいけない。自分の可能性は、少なければ少ないほど成功する。それに取り組む集中力が、大きければ大きいほど成功する。

運命学へ(63)

人は自分の価値を知りたいのだ。自分のことを誰かに何らかの言葉で表現してもらいたいのだ。とくにそれは若い世代に顕著だ。若い人は視界が360度に開けている。どの方向に足を踏み出すか、いろいろと思案している。一歩足を踏み出したら、その方向に顔が向き、歩むべき道が見えてくる。だから、その一歩をどう踏み出すかが大問題となる。誰しも成功の道を歩みたいのだから。だからごく若い時に、自分で自分の道を見出せない場合は、いろいろな立場の人に、自分のことを表現してもらう機会を多く持つようにすればよい。自分の外に出ずに、自分のなかに閉じこもって考えても妙案は浮かばない。たとえ自分に対して発せられた言葉が否定的なものであっても、その言葉を聞いたときの自分がどう思ったかが重要だ。その言葉が気に入ったのなら、ずっと気に入ったままでよい。もしその言葉が気に入らなかった場合は、それがなぜなのか、じっくりと考えるきっかけにしたらよい。

運命学へ(62)

二十代前半のころ、当時は占いマニアだった。街中を歩き回って評判の占い師をみつけ、いつも決って同じことを訊いた。「将来は何をしていますか」と。そのときの占い師の答えを集めて書き出してみる。1、分厚い本を読んでいます。あなたは本を見て何か考え事をしている映像がでてきます。そんな仕事をしているのではないですか。(霊感占い)2、あなたは必ず外国にいきます。(四柱推命)3、あなたは前世に外国人とかかわっていました。(霊感占い)4、あなたは中近東から日本にやってきました。(霊感占い)5、良い配偶者と縁があります。(四柱推命)6、音楽ではなく語学をやりなさい。(四柱推命) 何十年も時間が経過したいま、わたしはどうなったか。4番は確かめようがないが、それ以外はほぼ予言通りになっている。他にもいろいろと言われたかもしれないが、それが記憶されていないのは、可能性として差し出された占い師の言葉を、とどのつまり、自分が無意識のうちに選び取って実践した結果ではないだろうか。