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運命学へ(7)

何がききたいですか、と占い師は言った。命式をだすのに五分程度の時間がかかっていた。運命コードの八字を書いていく作業なんて、いまは AI が一瞬にしてやってくれる。時間かせぎなのか、一種のパフォーマンスなのか。わたしは表情を変えずに、自分の運気について知りたいと告げた。占い師はしばらくの沈黙のあと、三年後に運の変わり目がきますと答えた。いいほうに変わりますかと訊くと、占い師は顔をしかめて、「いまはものすごくしんどい時期ですな。自分のなかにたまる一方で、吐き出すことができない。一種の糞詰まり、ですわ」と言った。わたしは占い師の言葉を批判的に聞いた。運命鑑定などに来る人間は、たいてい何らかの行き詰まりを感じている。そういう意味ではあたりはずれのない言い方だ。

運命学へ(6)

どうぞ、と中から男性の声が聞こえた。わたしはドアノブに手をかけた。どんな人物が占いをしているのだろう。部屋の中にいたのは、がっしりした体躯の五十過ぎの男だった。この道二十年と言ったが、長くやっているからいい鑑定ができるとは限らない。前の職業は何だったのだろう。出会いがしらに客を威嚇するようなことを言うのは、一つの経営戦略なのかもしれない。わたしはその占い師にうさん臭さを感じた。座るようにと促され、真新しい事務椅子に腰かけて鑑定がはじまった。あらかじめ生年月日を電話で訊いてきたのに、四柱推命の命式は出されていなかった。占い師は万年暦を繰りながら、おもむろに白い紙に八文字を書いていった。自分の命式については、この三十年の間に何度も見てきたので、紙に書かれた文字が間違ったものではないことを一つ一つ確認した。

運命学へ(5)

この三十年間で何が一番変わったかというと、こと占いに関しては、やたらに占い教室が増えたことだ。占い師がいて客がいてという構図は古くなり、客が占い教室の生徒になる時代となった。つまり占い師として食べていくには、ハードルが高くなったということだ。わたしが鑑定を依頼した占い師も、例にはもれていなかった。もはや鑑定だけでは食べていけないのだろう。ただでさえ少ない客を生徒として取り込むので、小さな事務所では、個人指導とならざるを得ない。個人指導と聞くと、門外不出の事柄を教えてもらえそうに思うが、事実はまったくそんなことはない。そこは駅から徒歩一分くらいのところにあった。かなり古いテナントビルの三階フロアの一室だった。予約時間ちょうどにビルの外階段を上り、わたしは紺色に塗装されたアルミ製のドア横のインターホンを押した。

運命学へ(4)

独学はどうしても一人よがりの学習になり効率が悪いのではないか。四柱推命に関して、この三十年間になし遂げたことはあまりにも少ない。わたしは四柱推命の師匠をさがすことにした。まずインターネットで検索してみた。いろいろと占い教室があり、どれにしたらいいのかさっぱりわからなかった。そのなかでも一つ、癖の強い関西弁で書かれたホームページが目に留まった。自宅から一時間ほどのところに、その占い事務所はあった。距離感が適当だったので、そこの鑑定にネット申し込みをした。次の日に占い師から電話がかかってきた。男性の声で、生年月日と誕生時刻と名前を聞かれた。わたしはすべてに正確に答え、鑑定日時を決めた。誕生日の三日前にかかってきた電話だった。鑑定日時は自分の、誕生日と誕生時刻に合わせた。ささやかな演出だが、こうしたほうがドラマチックになる。出来事はドラマチックなほうがいい。

運命学へ(3)

あまりにもいろいろな疑問と反発の感情が沸き起こってきたので、わたしは運命学を自分の人生の中で追究していく決意を固めた。とくに漢字八文字の配置や組み合わせをもとにして、人の運命を明らかにしていく四柱推命に照準をあわせることにした。四柱推命は子平推命とも言われ、東洋占術のなかでは、難解ではあるが非常に的中率が高い占術と言われている。その難解さゆえに簡単に人を寄せつけない占術ということには魅惑を感じたし、何よりもたった八文字で構成された運命コードの解釈を基軸にしているという点にも惹かれた。四柱推命の占い本は巷にあふれているが、できる限り簡単に入手できる本を選んで読んだ。といっても、仕事や家事の空き時間にほんの少しだけ関わっただけで、長らく中断していた時期もあり、最初にやりはじめてから三十年間は、何度も同じ知識の刷り込みを繰り返した。つまり、四柱推命の研究に関しては、三十年間ほとんど進展がなかったということだ。

運命学へ(2)

すべての人は、その人固有の運命のもとにこの世に生まれ出る。自分の意志とはまったく関係なく、生まれたときには、これから起きるあらゆる出来事が決定されている。だから、その人の運命コードを読み解けば、出生後の人生に何がどのようにおきるのか知ることができる。自分とまったく同じ運命コードと環境をもって生まれてくる人間の存在確率は、天文学的な数字分の1だ。これが従来の東洋哲学に基づく四柱推命の、運命にたいする考え方だ。わたしはこうした考え方に反発を感じた。飛行機事故などはどうだろう。災害などはどうだろう。結婚相手だって、来年いい相手と幸せな結婚ができますと占い師に言われたところで、いまいる相手といま結婚したい場合は、それをあきらめなければ幸せにはなれないのだろうか。意志や努力は運命の前では無力なのだろうか。

運命学へ(1)

若いころ、自分の運命に興味をもった。そのころの私は他力本願だったので、誰かに自分の運命について語ってもらいたいと思った。占い師を求めて街を歩き回ったこともある。そのときはいつも、意志や努力とは関係のないところで人は運命に翻弄されるのか?という疑問に苛まされながら、占い師の言葉を聞いたものだった。運命的な出会いとか運命的な出来事とか、人生の特に大事なシーンをそうした言葉で飾って表現することが多い。運命という言葉は、未来を知ることへの渇望を露わにしている。占い師に告げられた未来に、その言葉を受け取る人間の欲望が絡み合って、個々人の勝手な幻が構築される。そうであるとするならば、占い師は人に、創造的な力を与える摩訶不思議な力を持った人間ということになる。もちろん個々人に勝手な幻を構築させることのできる場合に限ってだが。