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『易』の特徴三つ

 『易』は『易経』ともいい、儒教の経書の一つです。「経」の字はもともと織物の縦糸の意で、そこから筋道、道の意味となり、人の生きる道、天下国家を統治する道、宇宙を動かしている道を解き明かしたものを意味することになりました。 『易』の特徴は以下の三つです。 第一の特徴は、『易』は占筮(うらない)のテキストであることです。古代中国では国の大事を決定するのに、多く占いによりました。殷の時代には、亀の甲を灼いたときのひびわれの形で吉凶を占う方法が多く用いられましたが、周の時代になると、亀卜より筮のほうがより多く用いられました。 第二の特徴は、『易』が処世の智慧に満ちていることです。『易』は、その神秘的な予見の作用によって、物事の起こるわずかな兆しを示すだけでなく、いかにすれば禍を避けることができるかを教える点で、実際的な処世知の書物となっています。 第三の特徴は、思想の書であるということです。つまり「道」を明らかにする哲学、中国のことばでいう天人之学を追求したもので、その宇宙論的哲学は東洋哲学の礎となっています。 以上、『易』について書いてみました。

ギルガメッシュ叙事詩

ギルガメッシュって、どこかで聞いたことがありますか? これは、1872年、大英博物館で、ジョージ・スミスによって発見された占星術に関する最古の文献です。ギルガメッシュとは、シュメール語で英雄の意ですが、じつは、旧約聖書に語られているノアの大洪水のあとに、シュメール帝国を統治した実在の君主の名なのです。 ギルガメッシュ叙事詩のあらすじをざっと語ると、英雄ギルガメッシュはウルクの王で、三分の一は人間で、三分の二は神でした。ウルクに城壁を築き、女神イシュタルのために神殿を建て人民を酷使したため、怒った神が天から怪物エンキドゥを差し向けました。エンキドゥはギルガメッシュと格闘し、互角の引き分けとなったあと、ギルガメッシュと無二の親友になりました。 逸楽と淫蕩の女神イシュタルの色香に迷わず、ギルガメッシュはイシュタルにつれなくしました。自尊心を傷つけられたイシュタルは、復讐の鬼と化し、父なる天の神アヌウに、ギルガメッシュを亡き者にするため、天の牛を遣わすよう頼みました。しかし逆に、ウルクに向かった天の牛を、ギルガメッシュとエンキドゥが虐殺します。天の牛を殺した者には、死という運命が待ち受けていました。エンキドゥの突然の死を見て、ギルガメッシュは怖れおののき、不死の霊薬を求めて旅に出ます。 ギルガメッシュは聖者の島に渡って、ついにそこに生い茂る不死の霊芝草をつみとります。帰路の途中、この霊芝草は蛇に盗み食われてしまいます。ギルガメッシュは不死は神のものであり、人間は死すべきものであることを思い知ります。 ギルガメッシュ叙事詩によると、ノアの大洪水の生存者だけが不死を獲得したことになっていますが、このノアの大洪水は、月と太陽および他の惑星の合の結果であると記されています。このように粘土書板に刻まれたギルガメッシュの叙事詩は、文献という形で現存する最古の占星予見なのです。

未来予見の方法

 未来予見の方法は伝統的に三つあります。 一つめは占星術、二つめは易、三つめは魔術です。占星術は、もともとメソポタミアでシュメール人による文明が長らく続いたあと、アッカド人によってそれが取って代わられ、さらにその後にやってきたサマリア人やバビロン人、エジプト人が発展させていきました。星を観察していくうちに、星が一年を通じて変化し、四季の移り変わりと足並みをそろえていることを知るようになり、一日の時間の経過を太陽の位置で知るように、一年の季節の変遷を星の位置で確認するようになったのが始まりです。 易は黄河中流地域を支配していた殷王朝下に成立し、中国独自の哲学にまで洗練されて今日に至っています。 魔術は、政治力や金力や武力のない庶民が、祈祷や念力や護符などで敵を倒したり、または、恋人を獲得したり、もろもろの念願を達成しようとするもので、ESP、サイコキネシス、テレパシー、催眠術、千里眼などもその範疇に入ります。大雑把な分類ですが、占星術は科学的、易は哲学的、魔術は技術的なものと理解できます。また、占星術は時間系列を、易は瞬間を、魔術は空間領域を支配するものということもできます。

運命学へ(74)

老子はあるがままに生きよと言う。以下は安富歩氏の本『老子の教えーあるがままに生きる』からの抜粋である。 ものごとは常に変化する。 あなた自身もそうだ。 もしかするとあなたは、 目の前にあるものごとを、 確かにそこにある、と思い込んでいるかもしれない。 しかし、 どんなに避けがたいと、あなたが思い込んでいることでも、 やがて消え去り、あるいは変化する。 どんなことでも、どんなものでも、いつどうなるかわからない・・・ 永遠に続く苦しみも楽しみも喜びも悲しみもない。いまのこの時が全てなのである。自分の周りの人も変化するし、自分も変化する。こうなると、永遠の愛なんて、言葉としてだけ存在するまやかしにすぎないものとなる。ほんとうに大事なことは、言葉化して固定してしまってはいけないのだ。

運命学へ(73)

四柱推命では十年ごとに巡ってくる運のことを行運という。この行運の変わり目の年を挟んで前後二年ほどは、大きな変化に見舞われる要注意の時期である。次に良い行運が来るとしても、起きる事象は良いとは限らない。筆者の経験では、それまでの四十年ほどに、連続して悪い行運が巡っており、ようやく次にいい行運が来ると思っていたら、変わり目の一年ほど前から不測の出費とか、歯の手術とか、その他仕事上の失敗とか、いろいろと不運な出来事が連続しておきた。こういった事態は運命の「膿だし現象」と考えられる。それまでの四十年間の悪い運の時期に、潜在的にあったのだがまだ顕在化していなかった不運が、次に来る良い運が刺激として作用して、浄化作用みたいなものが働いて一気に噴き出てきた現象である。これは一個人の話だが、いま世界規模で大きな運の変わり目を迎えている。昨今の異常気象による災害やコロナ禍など、世界中の人々が等しくこの激動の変化を共有している。今後、コロナウィルスの収束とともに、世界の価値観は一新していることだろう。

運命学へ(72)

老人の「死ぬ権利」について語った映画や書き物があるなかで、あえて「生きる権利」について語りたい。老後は、自由と言う名の牢獄につながれた状態だと言う人がいる。それは、自分のために使える時間を、自分はおろか誰のためにも使っていない状態を指している。そのとき人は、時間の奴隷に成り下がっている。誰しも牢獄の中で生きたいなんて思っていない。老人にとっての自由とは、必ずしも身体の自由を意味してはいない。じつは何よりも大事なのは、心の自由だ。金銭的に恵まれていなくても、身体的に不自由であっても、心が自由に動く老人のまわりには人が集まってくる。年齢に関係なく自由は、自由をほんとうに理解している人からしか学べないからだ。

運命学へ(71)

純文学は人生の意味を深く掘り下げていくのが本義だが、エンターテインメントのストーリーは違う。それは、人生が生きるに値するものであると伝えることが使命なのだ。だから、どきどき、はらはら、わくわく面白いということが第一になる。作品の社会的な意義とか、歴史的な意味とか、哲学的な本質とか、そういった類いのものは、純文学だったら不可欠な要素だろうが、エンターテインメントでは関係ない。そういう観点から言うと、エンターテインメントのストーリーには読者への気遣いがある。いかに読者の心を揺さぶり、いかに読者をくぎ付けにし、いかに読者にカタルシスを味わってもらうか。何を描くかよりも、いかに描くかのほうに重点が置かれているのだ。人生に意味を求めることが無意味である時代に生きるのは、手ごたえのなさを生きることだ。そういった中で自然体で自分らしく生きようとするならば、心の振れ幅を大きくすることが重要だ。心は硬直させてはならない。私たちには身体だけではなく、心のエクササイズが必要だ。

運命学へ(70)

その人の背景情報や事のおこり、一族の因縁みたいなものは、四柱のうち年の柱に表れている。どういった先祖のもとに生まれてきたのか、どういった血脈を引いているのか、どういったミッションを背負っているのか、克服すべき問題とは何なのか、こういった情報が年の柱に満ちている。そして時間の柱には、一代の人生の帰着内容が示されている。ミッションは遂行されるのか。問題は克服されるのか。結婚して子供をもうけた場合、自分と子供の関係はどうなるか。因縁の解消はできるのか。時間の柱にはそういった情報が詰め込まれている。

運命学へ(69)

悲劇的な、喜劇的な、幸福な、不幸な、豊かな、静かな、騒々しい、孤独な、貧しい、寒い、温かい、釈然としない、満ち足りた、納得の、無念の、平凡な、苦々しい、落ち着いた、上出来の、不出来な、穏やかな・・・これらはすべて「ラストシーン」につく形容詞だ。数ある形容詞のなかから、本人がそのたった一つを選択する。第三者の目に映るその人と、その人自身の目に映っている自分の姿には、ほとんど差がない場合もあるが、どうにも説明できないほどかけ離れている場合もある。四柱推命の運命式にあらわれる「ラスト」は、第三者の目に映るその人で、それは必ずしもその人が思う自分と一致するものではない。