運命学へ(52)
金谷治氏の『易の話』を読んだ。『易経』は中国最古の書と言われ、四書五経の最高峰であり帝王学の書である。『易の話』によると、『易』には二つの側面がある。一つはうらないの書としての『易』であり、いま一つは思想・哲学の書としての『易』である。『易』のこうした側面は、それぞれ別個に発展してきたわけではなく、密接につながって連関している。なぜならどちらにせよ、人の生き方に関心の中心があるからである。『易』には、時代や研究者によって、こうした側面の一方に重心が振り子のように揺れてきた歴史がある。『易』では、陰陽は互いに相反しながらも、交ざりあおうとして大きな循環をおこし、あらたな進化をすると考える。干合という干の組み合わせがおきるとき、たとえば自分を表す干と行運の干が干合するときなどは、あらたな変化が自分におきる時と考えられる。以前、ある占い師が、干合は病気になる時期だと言っていたのを思い出す。自分に何らかの変化がある時期なのだから、その一つの可能性として、自宅ではなく病院で日々を過ごすといったこともありうるかもしれない。しかしその可能性のみが真実とは思えない。命式にもよるが、干合の時期は、自己変革がもっとも時機を得てうまくいくときでもありうる。貧乏人が金持ちに、無名の人が有名に、といった変化もあるだろうし、その逆もありえるのだ。