運命学へ(32)
どうしてわたしは運命学を本格的に追究する気になったのか。自問自答してみた。わたしは長い間、二十世紀のアメリカ人作家の研究をしてきた。その作家はドキュメンタリー作家ではなく、虚構の世界を描く作家だった。その作品は大体のところ、「一人称での語り」という手法をとっていた。二十世紀に入ってフロイトが精神分析学を創設したが、それはまぎれもなく人間の意識の解明に注意を向けた学問だった。二十世紀はとくに自分というものに関心を向け、自分の意識を、それが潜在的なものであれ顕在的なものであれ、探求した時代だった。わたしが研究し続けてきた作家も、二十世紀という時代精神の中で生きた人間だったから、作品の中の主人公は「わたし」だった。小説の内容はすべて、自分が自分の考えの中に入り、自分の考えの中で悩み喜ぶといったもので、作家が描いたのは、そういう意味では、まさしく虚構の世界だった。わたしは作家の描く虚構世界に「真実」を躍起になって探し出し、そうして得られた研究成果を現実生活に活かす試みをしてきたが、どうしてもうまくいかなかった。研究成果の現実生活への適用に関して、わたしはそこに一かけらの真実すら見出すことができなかったのだ。