占い師

書店で首尾よく本を買えない日は、さらに歩き回って、占い師のところにいった。占い師はたいてい、ひっそりとした人目につかない場所にいたが、往来の激しい道路際にわざとらしく立って、まるで街娼と見誤ってしまいそうな占い師もいた。
 いつも遠くから占い師の姿を見つけると、その日はもう街を彷徨うことなく「これで帰れる」と思ったものだ。どんな言葉でも、どんな占い師でも、よかった。お金を払えば、何がしかの言葉がきける。あちらからこちらに向かって、どんどん近づいてくる占い師。そんな風に見えた。街中を幽霊のごとく歩いているわたしに、声をかけてくる人なんていなかった。言葉には、こちらから行動をおこさなければ、ありつくことはできなかった。だから占い師を見つけたときは、言葉にありつけたように感じて、うれしく感じたものだ。
 ほしくてほしくてどうしようもなくほしかったから、言葉の質なんてどうでもよかった。理解できる日本語だったら、何でもよかった。だけど、どの占い師もあまり大した違いはなかった。人生の転機を迎えていますとか、来年は結婚運がきていますとか、あなたは外国暮らしをしますとか、お金には恵まれますとか、子供運がいいですとか。街をさまよっている若い娘だったら、どの言葉を選んで言っても、二千円ほどの見料をせしめるのには十分だろう。わたしは占い師に気を使って、世間の若い女だったら、占い師の吐く言葉に対して浮かべるかもしれない表情をして、占い師の顔を見た。
 二千円は大した額のお金ではないが、あらかじめ予測していた言葉を、さも嬉しそうに受け取るには高い出費だった。それなのに、わかっているのに、凝りもしないでまた、占い師を求めて街を歩き回る。わたしにだけは特別の言葉があると、わたしは特別な運命のもとに生まれていると、そんなふうに自分のことを思いたかった。なのに、どんな占い師もわたしに、わたしにだけ特別の言葉なんて与えてはくれなかった。


平凡な運命しか、わたしは持ち合わせていないのか。特別に選ばれていると価値を付与して、わたしを甘やかしてくれる人を求めていたのか。わたしはどうしても稀有な存在になりたかった。





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