投稿

5月, 2020の投稿を表示しています

運命学へ(7)

何がききたいですか、と占い師は言った。命式をだすのに五分程度の時間がかかっていた。運命コードの八字を書いていく作業なんて、いまは AI が一瞬にしてやってくれる。時間かせぎなのか、一種のパフォーマンスなのか。わたしは表情を変えずに、自分の運気について知りたいと告げた。占い師はしばらくの沈黙のあと、三年後に運の変わり目がきますと答えた。いいほうに変わりますかと訊くと、占い師は顔をしかめて、「いまはものすごくしんどい時期ですな。自分のなかにたまる一方で、吐き出すことができない。一種の糞詰まり、ですわ」と言った。わたしは占い師の言葉を批判的に聞いた。運命鑑定などに来る人間は、たいてい何らかの行き詰まりを感じている。そういう意味ではあたりはずれのない言い方だ。

運命学へ(6)

どうぞ、と中から男性の声が聞こえた。わたしはドアノブに手をかけた。どんな人物が占いをしているのだろう。部屋の中にいたのは、がっしりした体躯の五十過ぎの男だった。この道二十年と言ったが、長くやっているからいい鑑定ができるとは限らない。前の職業は何だったのだろう。出会いがしらに客を威嚇するようなことを言うのは、一つの経営戦略なのかもしれない。わたしはその占い師にうさん臭さを感じた。座るようにと促され、真新しい事務椅子に腰かけて鑑定がはじまった。あらかじめ生年月日を電話で訊いてきたのに、四柱推命の命式は出されていなかった。占い師は万年暦を繰りながら、おもむろに白い紙に八文字を書いていった。自分の命式については、この三十年の間に何度も見てきたので、紙に書かれた文字が間違ったものではないことを一つ一つ確認した。

運命学へ(5)

この三十年間で何が一番変わったかというと、こと占いに関しては、やたらに占い教室が増えたことだ。占い師がいて客がいてという構図は古くなり、客が占い教室の生徒になる時代となった。つまり占い師として食べていくには、ハードルが高くなったということだ。わたしが鑑定を依頼した占い師も、例にはもれていなかった。もはや鑑定だけでは食べていけないのだろう。ただでさえ少ない客を生徒として取り込むので、小さな事務所では、個人指導とならざるを得ない。個人指導と聞くと、門外不出の事柄を教えてもらえそうに思うが、事実はまったくそんなことはない。そこは駅から徒歩一分くらいのところにあった。かなり古いテナントビルの三階フロアの一室だった。予約時間ちょうどにビルの外階段を上り、わたしは紺色に塗装されたアルミ製のドア横のインターホンを押した。

運命学へ(4)

独学はどうしても一人よがりの学習になり効率が悪いのではないか。四柱推命に関して、この三十年間になし遂げたことはあまりにも少ない。わたしは四柱推命の師匠をさがすことにした。まずインターネットで検索してみた。いろいろと占い教室があり、どれにしたらいいのかさっぱりわからなかった。そのなかでも一つ、癖の強い関西弁で書かれたホームページが目に留まった。自宅から一時間ほどのところに、その占い事務所はあった。距離感が適当だったので、そこの鑑定にネット申し込みをした。次の日に占い師から電話がかかってきた。男性の声で、生年月日と誕生時刻と名前を聞かれた。わたしはすべてに正確に答え、鑑定日時を決めた。誕生日の三日前にかかってきた電話だった。鑑定日時は自分の、誕生日と誕生時刻に合わせた。ささやかな演出だが、こうしたほうがドラマチックになる。出来事はドラマチックなほうがいい。

運命学へ(3)

あまりにもいろいろな疑問と反発の感情が沸き起こってきたので、わたしは運命学を自分の人生の中で追究していく決意を固めた。とくに漢字八文字の配置や組み合わせをもとにして、人の運命を明らかにしていく四柱推命に照準をあわせることにした。四柱推命は子平推命とも言われ、東洋占術のなかでは、難解ではあるが非常に的中率が高い占術と言われている。その難解さゆえに簡単に人を寄せつけない占術ということには魅惑を感じたし、何よりもたった八文字で構成された運命コードの解釈を基軸にしているという点にも惹かれた。四柱推命の占い本は巷にあふれているが、できる限り簡単に入手できる本を選んで読んだ。といっても、仕事や家事の空き時間にほんの少しだけ関わっただけで、長らく中断していた時期もあり、最初にやりはじめてから三十年間は、何度も同じ知識の刷り込みを繰り返した。つまり、四柱推命の研究に関しては、三十年間ほとんど進展がなかったということだ。

運命学へ(2)

すべての人は、その人固有の運命のもとにこの世に生まれ出る。自分の意志とはまったく関係なく、生まれたときには、これから起きるあらゆる出来事が決定されている。だから、その人の運命コードを読み解けば、出生後の人生に何がどのようにおきるのか知ることができる。自分とまったく同じ運命コードと環境をもって生まれてくる人間の存在確率は、天文学的な数字分の1だ。これが従来の東洋哲学に基づく四柱推命の、運命にたいする考え方だ。わたしはこうした考え方に反発を感じた。飛行機事故などはどうだろう。災害などはどうだろう。結婚相手だって、来年いい相手と幸せな結婚ができますと占い師に言われたところで、いまいる相手といま結婚したい場合は、それをあきらめなければ幸せにはなれないのだろうか。意志や努力は運命の前では無力なのだろうか。

運命学へ(1)

若いころ、自分の運命に興味をもった。そのころの私は他力本願だったので、誰かに自分の運命について語ってもらいたいと思った。占い師を求めて街を歩き回ったこともある。そのときはいつも、意志や努力とは関係のないところで人は運命に翻弄されるのか?という疑問に苛まされながら、占い師の言葉を聞いたものだった。運命的な出会いとか運命的な出来事とか、人生の特に大事なシーンをそうした言葉で飾って表現することが多い。運命という言葉は、未来を知ることへの渇望を露わにしている。占い師に告げられた未来に、その言葉を受け取る人間の欲望が絡み合って、個々人の勝手な幻が構築される。そうであるとするならば、占い師は人に、創造的な力を与える摩訶不思議な力を持った人間ということになる。もちろん個々人に勝手な幻を構築させることのできる場合に限ってだが。

自分を変える14

もうわたしに乗馬は必要なくなった。自分を変えるとは、自分の恐怖を克服することだ。思えば、自分の恐怖を克服するためのレッスンに乗馬を選び、そうとう無理をしたし、要らぬストレスもためた。不安をすこしでも和らげようと、本を買いこんで知識を詰めこんだ。挫折の連続だったが、それでも達成感のようなものを味わうことができた。心が解き放たれて大気に溶けこみ、肚の底から笑いが沸き起こってくる稀有な感覚だ。わたしの乗馬物語はここでおしまいとなるのだが、お金を使った分の収穫はあったと思いたい。知識を自分のものにするには時間がかかり、そのかかった時間は一瞬のうちに溶解する。すべてをつかんだと錯覚できる瞬間は必ずくる。そういった瞬間を導くのには、良き指導者、自分と相性のいい相手にめぐりあうことだ。相性がいいとは、相手と自然な笑みをかわせること。何も言わなくても、お互いに理解しあえていると思えること。そして何よりも、痛くないことだ。

自分を変える13

馬は仕切られた囲いの中を何週も走り続けた。馬場にいたほかのインストラクターが茫然とわたしを見ていた。乗っているうちに、体の浮き幅も小さくなり、それでいて弾力のある柔らかい感触はかわらず、空に溶け込むような自由さを味わい続けた。そのうち、止めてくださいと指示する声が聞こえたので、ふくらはぎを馬の腹に密着させて、じんわりと内側に圧した。きわめてスローモーションの動きで馬はそっと止まった。普通、初心者用の馬は、不慣れで緊張した人間に、混乱した合図を出され続けることで壊れていくものだが、たまたま適切に調教されたいい馬にめぐりあわせたようだった。こちらからの軽い合図を、馬は集中して理解している。乗馬でこうした爽快さを味わったら、乗馬をやめられなくなる。きっとそうだ。過去に詰め込んだ乗馬の知識が、はじめて自分の血肉になった日だった。物事はそのときはできなくても、違うタイミングで一ぺんにできるようになる。自分をあきらめる必要なんて毛頭ない。

自分を変える12

軽く馬の腹を蹴った。馬はゆっくりと歩き始めた。次は軽速歩をして下さいというインストラクターの指示に合わせて、馬の腹を再び軽く蹴った。スピードはけっして速くはなかったが、馬は走り出した。あれ、リズムが違う。合図を勘違いしたようだ。わたしは馬が駆け足をしていることを瞬時に理解した。インストラクターの言葉を思い出して、後ろポケットの下のほうが馬の背中に触れるよう、そのことだけに集中した。馬の前足が地面に着地するとき、わたしの体は宙に浮いた。だけどその後は正確に、馬の背中に腰が吸いついた。寸分のずれもない。自分の腰のぜい肉のせいだろうか。馬の背中に再び体がもどるとき、いままで感じたことのないやわらかいクッションの感触があった。痛みどころか真新しいバネの上で弾んでいるようだった。青空がわたしをめがけて飛び込んできた。このときの気分は、爽快の一言だった。

自分を変える11

バスを乗り継いでようやく新オープンのクラブに到着した。系列のクラブから馬をかき集めたそうで、全部で七頭ほどが厩舎にいた。インストラクターは同い年くらいで、自分が教える生徒は、すぐに馬に乗れるようになると告げた。つながれてこちらを見ていた馬が微笑みかけてきた気がした。いまから乗る馬だ。わたしは一目でその若い雌馬が気に入った。半径五メートルほどの円を描いてしきられた馬場に、初老のインストラクターの声が響いた。 「はいているジーパンの、後ろポケットの下のほうで馬に乗にのると意識してください」その言葉どおりにすると、腰がぐっと前に出て、上体の姿勢をまっすぐに保つのには腹筋をつかわなければならなかった。 「これが馬に乗るフォームです」 なるほどそうか、馬の背中には座ると思っていた。そう、乗馬はスポーツなのだ。けっして楽ではないはずだった。

自分を変える10

軽速歩に慣れてきたころ、インストラクターに鞍の購入をすすめられた。クラブ内で物品販売のノルマがあるようだ。え、と驚くような値段を言われたせいで、そのクラブをやめる決意を固めた。初心者に鞍をすすめるとはどういうことか。怒りにも似た感情が沸き起こってきた。その後いろいろと他のクラブを探したが、適当なところが近くになかった。取りあえず、インストラクターと顔を合わせるのが嫌になり、そこの乗馬クラブはやめた。そうして二か月もたったころ、もうほとんど乗馬のことは忘れてしまっていたが、以前とは違う駅でまた、乗馬のパンフレットをもらった。なつかしい感じがして、立ち止まって話を聞いた。以前と同じ系列のクラブだった。新しくオープンするので、20分無料個人レッスンのキャンペーンをしているから来ませんか、ということだった。わたしはまた性懲りもなく、二つ返事で承諾した。

自分を変える9

そうそう、裏掘りのことを書いておかないといけない。馬の四本足のうちのひとつを手でつかみ、蹄を裏返して掌にのせ、そこにつまったゴミを取る作業だ。いつも馬の左側に立つようにと言われていたので、馬の左足を裏掘りするのはさほどの問題はないのだが、馬の右足を掘る場合は、馬の腹の下にもぐらなければ手がとどかなかった。とくに右後ろ脚には閉口した。馬の後ろ側に体を移動させることには、蹴られるかもしれないと恐怖を感じた。後ろ足の裏掘りが恐怖のためうまくできず、インストラクターに、小学生でもやれてるのにと言われたとき、やっぱり乗馬はあきらめようと思った。自分の恐怖に立ち向かうとは、聞こえはいいが、たいへんなストレスを自分に課すことになる。馬自体が好きでないと、こんなことはできない。また思うように足をあげてくれない馬もいる。馬も初心者を馬鹿にする。これも人間同様だ。

自分を変える8

軽速歩をするようになると、馬装を覚えなければならなかった。馬に鞍をつけるやり方は一度では覚えきれないほど複雑で、何度も乗馬教則本を読んだりユーチューブの動画を見たりした。特に馬にハミを咬ませるのは、直接自分の掌にハミをのせて馬の口元に触れなければならなかったから、難易度が高かった。すっと素直にハミを口の中に入れてくれる馬もいれば、そうではなく、頭を高くあげて、ハミを口の中に入れさせない馬もいた。そういうときは、インストラクターに丸投げした。そのときに気がついたことだが、馬は年齢が高くなると、前歯がなくなっている場合がある。これは人間と同じで、若い馬のほうが歯はきれいに揃っている。そういったことに気がついて、ハミはうまく咬ませられなかったが、自嘲的な満足感のようなものを感じた。馬も人間と同じように、年をとると歯が悪くなる。

自分を変える7

しばらくは歩くだけのレッスンだったが、ある日、軽速歩の練習をしましょうとインストラクターに告げられた。軽速歩はその名のとおり、馬が歩くよりも早いスピードで走る。右前足と左後ろ足、左前足と右後ろ足が、それぞれ連動して地面に着地する二拍子の動き。騎手はこの二拍子の動きにあわせて、馬の背中とぶつからないように腰を浮かせて衝撃を逃がす。軽速歩は動きが速い。最初、馬の動きに心も体もついていけなかった。腰を浮かすタイミングがよくわからず、何度も馬の背中に腰をぶつけた。レッスンが終わったあとは、トイレで痛みとの格闘をしなければならなかった。これは経験した人にしかわからない。また、挫折感に苛まされはじめたが、乗馬をはじめるときクラブに安くない入会金を支払っており、乗馬用の練習着をそろえるのにかなりの出費をしたこともあり、自分の挫折感を振り払う努力をした。自分を変えることには、痛みがともなう。心の痛みは実体がなくわかりにくいが、体の痛みはわかりやすい。わかりやすいって良いことだ。わたしは変わりつつある。そう思い込むことにした。

自分を変える6

馬の背中に乗ってゆっくりと歩くだけで精神に良い影響を及ぼす、といった内容の文章を読んだことがある。そのときは、そんなものかなと思ったが、いま、自分がそれを実践している。なるほど、これか。揺れるというのは、母親の胎内にいるときからずっと経験してきている。動物に生まれた以上、まったく動くことなしに人生をまっとうすることはない。自分はいま原初の世界の経験を再現しているのだ。そう思った。ずっとこのままで、上のクラスには進むことなんて考えないで、ゆっくりと歩くだけの乗馬を楽しもう。さきほどの乗馬への挫折感は、この瞬間に克服された。馬の背中に乗って姿勢をただすと、目ははるか先の前方を見ることになる。まるで未来に向かって天馬に跨っているようだ。下を向くと、地面と二つの耳の突き出した角ばった馬の頭が見えた。馬の頭は上から見ると、思ったよりも小さかった。体は大きいけれど、脳は小さいせいなのだろう。耳付きの帽子をかぶった幼稚園児の頭を後ろから見ているようで、かわいいと思った。

自分を変える5

視界の変化に慣れるのにしばらくかかったが、そのうち、馬の腹を蹴るようにとインストラクターが指示する声が聞こえた。わたしは馬の腹をかかとで軽くつついてみた。ぴくりともしない。だけど、馬にもどかしさどころか安心を感じた。もっと強く、とインストラクターが叫んだ。仕方なしに、さらにかかとで馬の腹をつついた。何事もおきなかった。もっと。自分の下腹に力をこめて馬の腹を蹴った。これは動物虐待ではないか。そう思った。するとようやく馬は、ゆっくりと後ろ足をふんばり前足を動かし始めた。一歩ごとに自分の腰が左右にねじれてゆっくりとした動きで揺れた。経験したことのない複雑な揺れだった。かつてのモンローウォークのように、二本足歩行で揺れる腰の動きとはまるで違って、そこに斜め方向の動きが加わっていた。それは、いままで経験したことのない新鮮な律動だった。

自分を変える4

インストラクターが号令をかけた。馬の背中に短くたたまれた鐙を下におろした。趣味でやる乗馬は、馬に乗り降りする際に、一番事故が多いらしい。馬が急に動き出したりして、バランスを失って馬から落ちたりする。だから初心者の場合、馬場で輪になっている七人の生徒が、一人ずつインストラクターの見守る中で、鐙に左足をかけて馬にまたがる。わたしもインストラクターに見守られながら、左足を鐙にかけて、あがりにくい右足を馬の背中に回して、どうにかこうにか馬にまたがった。いつもの倍くらいの目の高さから一気に視界がひらけた。引馬のとき、馬のクビで視界の一部が遮られたのには不安を感じたが、一変した視界の開け方にも違った感覚の不安を感じた。自分はいま、馬の背中に乗っている。そのことを実感した。このまま動かないで止まっていてほしい。もうこれ以上の動きには、自分の心がついていけない。ここで再び乗馬に挫折した。

自分を変える3

右手に持った手綱をいくら前に押し出しても、馬はぴくりともしない。まったく歩き出すそぶりもない。何度ためしても同じだった。インストラクターが見かねて、わたしから手綱を持ち替えて、ぐっと前に、馬の鼻先に向かって手綱を押し出した。馬はようやく気がついたかのように、ゆっくりと前足を動かし始めた。もうこの時点で乗馬に挫折を感じたが、まだ始めたばかりだった。思い直して、そのままゆっくりと馬場への一本道を歩いて行った。右側通行の道だったが、向こうからくる同じように引き馬をしている人とすれ違うとき、馬同士がけんかしないかと不安になった。犬の散歩でときどきそういった状況がある。わたしの不安をよそに、馬同士は互いに無関心だった。人間同士は不安な心中を確かめあうように、互いに会釈しあった。自分の不安に共感する人間の存在はありがたかった。心臓の鼓動が少しおさまった。馬場のほぼ真ん中あたりまで出た。

自分を変える2

初めてまぢかで馬を見た。昔読んだ『黒馬物語』を彷彿させるような真っ黒の馬だった。横に並んで立つと、馬のクビあたりにこちらの目の位置がきて、あちら側がまったく見えない。馬は想像以上に大きかった。黒い壁が目の前に立ちはだかっている。わたしは言いようのない恐怖にかられた。まず、馬自体がこわかった。馬は従順な動物とは聞いていたが、あちらこちらで時々発生する馬による事故でケガをしたり、命を失ったりする人の話も聞いていた。馬に蹴られたり、足を踏みつけられたりするような状況に、いつ何時、自分がまきこまれるかわからない。それから、視界を、一部であっても、遮られるということが、さらにわたしの恐怖心をあおった。乗馬インストラクターが馬の左横に立ったわたしに、手綱を右手でもって歩き出すよう指示した。心臓がとまりそうになった。

自分を変える1

自分を変えるために、いままでやったことのないことをやってみることにした。そうすれば、新しくいろいろな情報を自分のなかに詰め込むことができる。古くて要らないものは、新しいものがどんどん入ってくれば、それにしたがってなくなっていく。それが繰り返されれば、自分は新しくなる。そのように考えて実践してみた。「いままでやったことのないこと」に乗馬を選んだ。運動不足解消になると思えたし、以前から乗馬にあこがれていたこともある。たまたま自宅の最寄り駅で、パンフレットを配っていたから、その場で申し込みをした。ここまでは順調だった。

連滴

はるか昔、連滴という言葉を教えてくれた人がいる。記憶の海に沈んでいたはずの言葉なのに、とつぜん浮かび上がってきた。好奇心がわいて辞書で調べてみたが、どの辞書にもこの言葉はない。それで、ようやくわかった。これはその人が創り出した言葉なのだと。その人はこんな風に言った。「滴がたれる。最初はぽとぽとと落ちるスピードが速いけど、そのうちぽたりぽたりと遅くなり、もうこれで終わりとばかりにぽたっと落ちる。実はこれからが本番で、最後の一滴が落ちたと思っても、さらにまだもうひとしずく、極めてゆっくりぽつんと落ちる」そのときは、何事もあきらめちゃいけないという意味だと思った。だけどいま、この言葉を言ったその人は、当時ものすごく無理をしていたんだなと感じる。ぽつんと一人。最後の最後にある一滴なんて、しぼりだしちゃったら命を終えるしかない。

『神曲』

ダンテの『神曲』。中学生のころ、学校の小さな図書室でそれを見つけた。まず、題名の意味が理解できなかった。だから、手に取ってじっくりとその本を見た。副題は地獄篇と書かれてあった。      人生の旅路なかばに      正しき道をうしない        暗き林のうちにいるのを見た。 これが冒頭の言葉。ダンテがこの本を書いたときの、著者としての立ち位置だろう。 一説によると、「人生の旅路なかば」は三十代半ばのことらしい。ダンテが生きていた時代はそのくらいの年頃だったのかもしれないが、いまの日本だったら、四十代半ばくらいだろう。そのあたりの年齢になると、自分が正しいと思って突き進んできた道に疑念が生じ、暗い森の中にいる自分を見出すという。確信して先を歩んでいけないのだ。いわゆる人生の迷い。何に迷うかは人それぞれだ。恋愛に迷う、仕事に迷う、将来に迷う。思えば、わたしはあらゆることに迷い、それゆえ何も決めることができず、ずっと暗い森をさまよってきた。

魔法使い

『魔法使いサリー』というアニメを見て育った。映像自体きれいだったが、それよりも何よりも、日常とは違う魔法の世界を描いているのに強く惹かれた。サリーが杖を一振りすると、目の前にあるものが急に変化する。そこにあるはずのないものが急に出現する。また、そこあるはずのものが急に消滅する。子供時代、わたしは、魔法使いになりたいと願ったものだ。  よくよく考えてみれば、今まで生きて、魔法使いが唯一なりたいと思った職業?だった。現在の職業は、ただなんとなく、周りの言葉を真に受けて、それが自分にとって正しいことと信じて就いた。適性みたいなものも影響したのかもしれない。精神的にさほどのストレスも感じずにやれてきた。こういうのは、天職ではなく、適職というべきだろう。  世間の基準に自分をあわせて、世間並みなことを言って、平均的で常識的な生き方を自分に強いてきた。変な人と誰にも思われたくなかったから。妙齢のおばさんが、魔法使いになりたいなんて。小学生にだって変だと思われる。こんな風に、他人様からの評価にきゅうきゅうとして人生を送ってきた。  だけど、そんな自分を捨てることにした。断捨離ブームとコロナウィルス騒ぎが、大きく影響している。仕事にいけない期間は、ほとんど職業人である自分を忘れている。こんなこと、いままでの自分の人生にはなかった。ぽっかりと空いた宙づりの時間。まるで人生のブラックホールに迷い込んだかのような。

占い師

書店で首尾よく本を買えない日は、さらに歩き回って、占い師のところにいった。占い師はたいてい、ひっそりとした人目につかない場所にいたが、往来の激しい道路際にわざとらしく立って、まるで街娼と見誤ってしまいそうな占い師もいた。  いつも遠くから占い師の姿を見つけると、その日はもう街を彷徨うことなく「これで帰れる」と思ったものだ。どんな言葉でも、どんな占い師でも、よかった。お金を払えば、何がしかの言葉がきける。あちらからこちらに向かって、どんどん近づいてくる占い師。そんな風に見えた。街中を幽霊のごとく歩いているわたしに、声をかけてくる人なんていなかった。言葉には、こちらから行動をおこさなければ、ありつくことはできなかった。だから占い師を見つけたときは、言葉にありつけたように感じて、うれしく感じたものだ。  ほしくてほしくてどうしようもなくほしかったから、言葉の質なんてどうでもよかった。理解できる日本語だったら、何でもよかった。だけど、どの占い師もあまり大した違いはなかった。人生の転機を迎えていますとか、来年は結婚運がきていますとか、あなたは外国暮らしをしますとか、お金には恵まれますとか、子供運がいいですとか。街をさまよっている若い娘だったら、どの言葉を選んで言っても、二千円ほどの見料をせしめるのには十分だろう。わたしは占い師に気を使って、世間の若い女だったら、占い師の吐く言葉に対して浮かべるかもしれない表情をして、占い師の顔を見た。  二千円は大した額のお金ではないが、あらかじめ予測していた言葉を、さも嬉しそうに受け取るには高い出費だった。それなのに、わかっているのに、凝りもしないでまた、占い師を求めて街を歩き回る。わたしにだけは特別の言葉があると、わたしは特別な運命のもとに生まれていると、そんなふうに自分のことを思いたかった。なのに、どんな占い師もわたしに、わたしにだけ特別の言葉なんて与えてはくれなかった。 平凡な運命しか、わたしは持ち合わせていないのか。特別に選ばれていると価値を付与して、わたしを甘やかしてくれる人を求めていたのか。わたしはどうしても稀有な存在になりたかった。

読まれなかった本

あれほど街中を歩き回って、わたしが探していたもの。それは、いまになってようやくはっきりとわかる。わたしが探していたのは、言葉だった。言葉、言葉、言葉。Word, word, word. まるでハムレットのセリフのよう。  平日の空いた日、まず最初に行くところは書店だった。わたしはいつも、書店の棚に並んだ本の背表紙に書かれたタイトルを片端から読んでいった。学術書のコーナー、実用書のコーナー、文庫のコーナー、新書のコーナー。どのコーナーでもよかった。いろいろなコーナーをぐるぐる回って、ひとつ、その日の気分と感覚にぴったりくるタイトルを見つけられたら、その日は大収穫だった。別にその本の内容に興味をもったわけではない。本のタイトルを自分勝手な思い込みで、好きとか嫌いと決めつけて、とくに嫌な気分になった本があったら、迷わずそれを買った。  ということは、いつも嫌な気分で日々を過ごしていたことになる。本って、言葉の重箱みたいなものだから、わたしは自分が嫌な気分になる言葉ばかりを集めて、それでよしとしていた。もちろん、そんな嫌な印象の本なんて読むはずもない。読まれる可能性のない本が、どんどん家の本棚の空き場所を占領していった。引っ越しをするときに全部処分したが、真新しい本を、過去の残骸として捨てたことには罪悪感を感じる。

出会った人

人生には出会いが重要だとはよく言われている。若いころに出会った人によって、その人の人生が決定されるとも。まず身近なところからいえば、親や兄弟、親戚だろう。どういった親のもとで生をうけるかだ。親のどういった形質や体質の遺伝をうけるか、親は裕福か貧困か、思想や信条はどうかなど。人生スタート時の環境といったところだ。二十歳前後で出会う人は、今振り返ると、いちばん人生への影響が大きかったように思う。いまだに自分はその人の影響を受けているとか、あるいは連絡をとろうと思えばとれる人とか全部で二人だ。    二人とは、少ない数字だろうか。通り過ぎていった人はもっとたくさんいるが、自分のなかに残っている人は二人だ。一人はわたしのことを「不思議ちゃん」と呼んだ。もう一人は、わたしのことを「語彙に乏しい」と言った。肯定的な表現と否定的な表現。二人とも背格好も顔もよく似ている。美形とは言い難く、一見どこにでもいそうな平凡さなのに、そのくせ大ぜいのなかにいても、一瞬にして間違いなく見出せるような、そんなところが似ている。この二人が人生のなかで現れては消えを繰り返し、わたしに多くのことを感じさせ考えさせた。

繁華街

繁華街を行くあてもなく歩いた時期がある。何かにとりつかれたかのように、ただ歩いた。どこかに用事があるというわけではなく、何かほしいものがあるというわけではなく、人間が好きというわけでもなく、漠然と何かを探しているような、実感も実体もない何かを。今思い返してみると、なんて無益なことをしていたのだろうか。何かわからないものを懸命に見つけようとしていた。冷えた情熱をもって、繁華街をひとりぽっちで歩いた。友人がいなかったわけではなく、やることがなかったわけでもない。むしろ、当時はふつうの大学生よりも忙しかった。当時のわたしは、女子大の大学院の学生で、しかも毎日のようにアルバイトをしていた。そう、歩き回ったのは、平日の午前中の、アルバイトも大学院の授業もない空き時間だった。平日の午前中は繁華街でさえ、人気のない寂しい通りになっていた。わたしはその寂しい通りを、ひとりぽっちで歩いていた。

不思議ちゃん

女子大生のころ、わたしのことを「不思議ちゃん」と親しみをこめて呼んでくれた人がいる。その人はもうずっと以前に、この世からいなくなった。わたしはそんな呼び名で呼ばれることが嬉しかった。何か自分は特別な感じがした。もちろん、その人にとっての特別な存在のこと。誰かに特別だと思ってもらえる自分でいたいと思っていたから。その人がなくなってからもう二十年になる。後にも先にも、わたしのことをそんな風によんでくれる人なんていない。    不思議、不思議。不思議という言葉は、意外性を追求しているような、生きている芸術品のような、次に何がおこるのか予測できないような、そんなパワーを秘めた響きがある。きみは不思議ちゃんだね、とその人は言った。わたしの予言したことが的中したらしい。 わたしは自分の言ったことなんて、忘れてしまっていたが、意外にも、言われた人は覚えていた。それ以来、その人はわたしのことを不思議ちゃんと呼んだ。